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Taka Kanai 6 followers OfflineTaka Kanai
Taka Kanai
Hatred never ceases in this world.
Retaliation does not heal hatred.
Only love overcomes hatred.
This is a universal truth.

まいにちが絵踏み
私の歎異抄


1,あらゆる生きものの生命の平等を説く仏教者と仏教教団が、ある特定の種の微生物を敵視し悪魔視して、そのいきものたちの存在価値を認めず、排除絶滅を計っている。現代の生物学者の一部の人たちの研究成果によると、私たちサルの仲間の哺乳動物の遺伝子の一部がヴィールス由来なのだという。その遺伝子がないと妊娠出産が不可能となる重要な遺伝子が、私たちのはるか遠い先祖、恐竜時代に生きていた原始哺乳類から受け継いだものではなく、何百万年前か判然とはしないが、生物進化のスケールではそう遠くない過去に、サル類の先祖の生殖細胞に入ったレトロヴィールス由来なのだそうである。これこそ、私たち人類とウイルスとが「いっさいの有情はみなもて世々生々の父母兄弟」である証しでないだろうか。

2,弥陀一仏・専修念仏・唯以信心を旗印とし、人を奴隷に陥落させる鬼神崇拝・呪術信仰を否定し、神祇不拝を説く浄土真宗者と浄土真宗の教団が、自ら鬼神崇拝・呪術信仰を門徒に推薦し強要している。
それは、現実世界では「お守り札」として機能している覆面布と、現実世界において「お祓いをうけること」「除霊してもらうこと」として機能しているワクチン接種について、それが宗祖親鸞が懇切に教え諭す「顕浄土真実教行証文類」第六章仮身土文類の教戒に乖くにもかかわらず、このことになんらの疑問を起さない。
なお科学のある説を信じ用いることが正信なのではない。科学は佛説でないから。科学者自身が科学とはすべて仮説なのだと認めている。科学は真如ではなく、単に
「こう考えたほうが便利に説明がつく」
という仮説に過ぎない。だから科学は九五種の邪見の一つと、仏教の観点からは観なければいけない。科学は真如ではないのです。「世間虚仮・唯佛寔真」の虚仮なる世間価値の内に科学は含まれる。虚仮なるものを真とみなして、これだけは確かだと、当てにし頼りにし、そこになんら疑問をもたない精神態度こそが迷信であって、親鸞が「仮身土文類」で批判したテーマである。

3、環境保護・生物の多様性・いのちを大切にと説く環境NGO諸団体が、その主張と矛盾する化学物質による微生物界の大規模な環境破壊を是認している。このことになんら疑いを持たない。

4、例えば、感染拡大は悪いことではないと考える人があるとする。それは善でも悪でもなく無記だと信条する人がいるとする。または、人と微生物の生命は平等に尊い、どちらの命も対等に公平に尊重したい、人間に都合によって他の生きものを殺害したくないと信条している人がいるとする。日本国憲法は人権保障について公共の福祉による制限を認めないのであるから、この人の思想信条を政府は最大限に尊重しなければならない。また、あらゆる生きものの生命は平等に尊いとの教えを信じ、草木山川はじめ微生物も含むあらゆる有覚無覚を不殺生したい仏教徒の信教の自由を政府は最大限に尊重する義務がある。しかるに現実には、特定の微生物を名指ししそれを嫌え嫌えと云い、「殺せ殺せ」と特定の生命の殺害を称揚しかつ強制する政府の行為。思想信条の自由を保障する憲法19条、および信教の自由を保障する憲法20条を蹂躙する行為を2020年春以降、日本政府が強行しているのに、自他ともにリベラル・憲法尊重と自認する文化人・弁護士・NGO団体の人びとまでが、この問題について寸毫も批判精神をもたず、あっさりと権力者の違憲行為を是認し、積極的に協力し続けている。差別主義者が差別政策をやるのはあたりまえのことだから特に驚いたりはしない。リベラル・平等・自由の旗を掲げる人たちが憲法違反の差別政策に左袒している。かつそれに無自覚である。

・人びとの貪欲瞋恚愚痴の三毒の煩悩に迎合することが生命尊重なのではない。それは糖衣オブラートの美辞麗句で包んだ我執です。昔の仏教者はこれを愛見の慈悲と云った。

・私たちが健康・安全・衛生を求めれば求めるほど、私たちは自由と公正を喪う。昔の仏教者はこれを魔道に堕ち入ると云った。
私たちが健康・安全を求めれば求めるほど、私たち自身が、村八分にされる恐怖に怯え、保身のために品行方正と見られたくて狂おしい努力に奔る。それは無批判かつ全面的な権力随順の外形として現われる。
誰も彼もそうする。
こうして私たちは自由を失う。清潔を希求すればするほど汚れてゆく私たち。

 世の中のひとが、恫喝と慰謝(鞭と飴)によってひとびとを支配するインターネット企業・ニュース・政治業者(政府)新聞社・雑誌社・出版社等々の利害を中間に介することなく、じぶんの眼で観、じぶんの耳で聞き、じぶんの鼻で嗅ぎ、じぶんのあたまで判断するようにかわったら、楽な世界になることだろうに。
 権力とは地上の特定の位置にいろかたちを備えて存在する実体ではない。それは人びとの心の中にのみ存在する観念である。人びとが従うからそれが権力であり得る。確固たる実体の裏づけがないゆえに、人びとの内面から権力(者)の正統性が薄れるればすなわち余の権力は弱体化する。だから日々人びとの内面権力強化し続けなければならないわけだ。権力の正統性(それはたった一つだけの価値観、一つだけのものの観方で構成する観世物興行としてのニュースショー、アイドル芸能人、ドラマ、バラエティーショー、小説、週刊誌月刊誌等であるが)を人びとの胸に打ち込む社会装置(おとなしくさせる慰謝装置としての文化産業)が、テレビ新聞雑誌書籍インターネット等々である(それから世界に遍在する監視カメラとヴィールスの表象、いつも心に監視カメラを絶やさないようにすること、それが権力の内面化)。2020年春から開始された政府メディア利益共等体によるグローバルキャンペーンは、人びと一人一人の内面へ、世俗なる、すなわち虚妄なる権力を植えつけるためのものである。一人一人がその内心に確固たるインナーガーヴァメント(フーコー説いた権力の内面化)を涵養させ、俺たちの健康を気づかってくれる権力者への感謝と随従(御恩と奉公)に生きる権力者の家畜に自発的に成ってゆくよう仕向けるものなのである。政府メディア利益共等体に利益居益をもたらすキャンペーンなのである。それに呼応する我らの覆面は、ビッグブラザー推奨服を寝ても覚めてもへだてなく常に着用せよ、との政府メディア利益共等体からの呼びかけにレスポンスして、24時間片時も休まず顔面を布で覆う我らのたゆみない行いは虚妄なる世俗価値をわが最上の信条として、いつでどこでも、お上への御恩奉公を私は忘れません。私は「健全な」(無害な)人間です。私はいついかなる場合にも他律されて生きます。私が自律することは決してありません。私は他者から与えられた情報によって行為しますと、世の中にアピールする姿なのである。それはきつい言葉で言い換えれば、私は自分の思考を持ちません、私は自己の感情を持ちません。私は政府メディア利益共等体により私にインストールされた情報プログラムどおりに思考感情するサイボーグまたはアンドロイドに過ぎません、と世の中に顕示する姿なのである。

なぜそうするか?
怖いからだ。

現に人びとは自ら進んでテレビ受像機や新聞紙を贖い、自己洗脳に努力する。こうやって世の中の、統治するされる関係、支配するされる関係が反復強化されている。それが世の中から排除されず「ちゃんと」生きてゆく「健全な」道だとみんなが信じて疑うことがないから。だがしかしそうやって自ら臣従する、跼蹐する生き方が、同時に自分で苦を製造し、他人を苦痛に巻き込み、社会全体の不幸福・逼塞感を螺旋状に増大させる行為であることを解しない。解しないばかりかなんとかしてこの反幸福の道から外れぬように恐慌的な努力をしてしがみついている。
 もし人がテレビや本や新聞やらを捨て、じぶんの眼で見、じぶんの鼻で嗅ぎ、じぶんの耳で聞き、じぶんの脚で大地を踏み、自らが自らを律し他に律せられることがないよう変われば、それはつまり、現況のこのアンチ幸福の螺旋階段の輪廻を超え出ればという意味であるが、そこにはひろやかな、綽やかな、たおやかな、明るく楽しい世界がひろがるのに。みんなはこの閉鎖された狭い世界内でだけの栄達を願い、この悪循環の輪廻をどうしても解脱しようとしない。政府メディア共等幻視体に繋属する傍生(家畜)の存在のものでありたいと狂おしい努力をしている。



参考資料A 「スッタニパータ」「ダンマパダ」釈迦牟尼
あらゆり生きものは死を恐れる。長い生きものも短い生きものも、大きな生きものも微小な生きものも、目に見える生きものも見えない生きものもみな死を恐れる。我が身にひきかけて生きものを殺してはならぬ。殺させてはならぬ。
人は生まれによって尊いのではない。姿形によって尊き者なのではない。人は生まれによって賤しいはでもない。姿形によって賤しいのでもない。
人は行いによって、尊い者ともなり、あるいは賎しい者ともなるのである。
 釈迦
恨みは報復によってははたされず。ただ忍を行じてのみ、よく恨みを克服することを得る。これは不変の真理である。
 釈迦

参考資料B「観無量寿経の教え」 33ページから39ページ
「お守りを持っていると事故に遭いません」とか、
「お祓いを受けると病気になりません」、「この壺を買って床の間に飾っておくと、お金が儲かります」といったことを、霊感商法などでは言いますね。
 お守りを持っている → □ → 無事故
 お祓いを受ける → □ → 無病息災
 壺を買って置いておく → □ → 金が儲かる
このブラックボックスの中にはどんな仕組みが入っているのかわかりますか。わからないでしょう。実は、わからないところがミソなのです。
霊感商法に、なぜ人はひっかかるのか。それは、この構造が利用されているのです。 つまり、お守りを持っているから自分は絶対事故は起こさないとか、お祓いを受けたから今年は病気をしないはずだと固く信じたりしません。 この形では魔は力を発揮しないのです。魔が威力を見せるのは、これとは逆の方向の時です。 事故を起こした時お 守りを持っていなかった。 病気になって入院した年に限ってお祓いを受けなかった。人に勧められたのに壺を買わなかったのだが、今お金に困っている、など私たちを不安に し弱点となる状況になった時です。 その弱点を突かれて、 「これがあれば弱点がなくせ 「これを持っていれば今の状況はなかったはずですよ」と誘われますから、つい私の人生と
うっかり壺みたいなものを買ってしまい、さらにはそれから離れられなくなってしまうのです。
そういうものが魔であり、 魔という形の宗教があるわけです。日本では、その代表 的なものが「霊」の宗教です。仏教は霊を説く宗教ではありません。 しかし、「人間は死んだら霊になる」ということを説く宗教は多いですね。
この場合、まず魔の構造からいくと、こういうことが起こってきます。
自分にとって面白くないこと、嫌なこと、早くなくしたいことがあります。 弱点ですね。そのときに、「何で私ばかりがこんな目に遭うんだ」と、予定通りいかないことを 恨み、呪います。 そして、あいつが悪い、こいつが悪いと、誰かに八つ当たりしたくなり ます。つまり、責任転嫁です。
もうこんな現実は嫌だ。責任を転嫁して、この現実を誰かに投げつけてやりたい。 そういう思いに駆られる人に、霊の宗教は「祟る霊」というものを紹介します。うまくいかなかったのは祟る霊がいたからだ、この霊を何とか処理すれば弱点がなくなります。よと誘うわけです。
でも逆に、すべて順風満帆で順調にいっている人には、祟る霊を紹介しても意味ありません。しかし、順調にいっている人は、この順風満帆の航海がこのままずっと続いていけばいいなと思っています。順調さを守りたい人には、祟る霊ではなく「守る霊」が 紹介されます。「あなたが今、うまくいっているのは守護霊がついているから」とか、「こ の守護霊を大事にしないと来年あたり危ないですよ」と言います。 そう言われれば「そうかなあ」と思って守護霊を大事にしようと思います。すると、「守護霊はこの壺に宿っていますから、この壺を床の間に置いて」となるわけです。
このように、今の状態を守りたいという要求を持っている人には守る霊を、八つ当たりしたい人には祟る霊を紹介するわけです。 その人の欲に応じて霊を紹介しますから、 はずれることはありません。 ということは、よく当たるということです。
弱点はなくせる。 人生は予定通りにいく。そうならないのは何か他のものが悪いんだ。このように考えている私たちの構造が欲を起こし、 そしてその欲に合った霊が紹介されるわけです。
ですから、霊というものが何か、もうだいたいわかりますね。私たちの欲望の影です。 自分の欲望の影が霊となって、 そしてそれを大事に守らなければとか、それを処理しなければとなるわけです。自分の欲望で霊を作り、そして自分が作った霊に踊らされて、 逆にコントロールされるのが、霊の宗教というものの構造です。 まさに魔です。魔に誘 われたとき、私たちの方にもそれに誘われていくような意識構造があるからこそ、これに寄っていくわけです。
魔に呼応していく私たちの意識構造を、親鸞聖人は「罪福信ずる心」という言葉で 教えてくださいます。 「罪」というのは、自分にとっての弱点です。「福」とは、自分の 思い通りになること、 都合のいいこと、利用できるものです。 弱点になるものは全部人 に投げつけて外にやり、自分にとって都合のいいものだけ自分に集まってこいと言う。
「鬼は外、福は内」という我々の宗教心の形を取った魔の意識を、親鸞聖人は罪福信と言われていると思います。
私たちはこの罪福信を持っていますから、魔に誘われていきます。 予定通りにいくことがすべてになっていますから、ありとあらゆるものを利用し、人の命も利用し、いら なくなればポイと捨てる。私の欲を中心にそういうことをやっていくわけです。まさに頻婆娑羅王はそうしたのです。自分の予定通りにするために仙人を殺す。 子どもが自分の予定を狂わせると聞いたら、 子どもを殺そうとする。まさにわがままいっぱい、罪福信いっぱいの頻婆娑羅王の姿が、そのことを私たちに問いかけています。 頻婆娑羅王の姿を通して、私たちが 「あなたはどんな姿でいるのか」と問われているので す。
親鸞聖人はこうした宗教性を、
「異学というは、聖道外道におもむきて、余行を修め、余仏を念ず、吉日良辰をえらび、占相祭祀をこのむものなり。 これは外道なり。」(『一念多念文意』 真宗聖典 五四一頁)
と言われています。 「これは外道なり」という言葉で、吉日を選んだり占いに頼ったりするのは仏教ではありません、本当に人間を人間にしていく道ではありません、と批判されているのです。 つまり、自分の都合の悪いことや予定通りにいかないことをすべて他の責任にし、自分中心に生きようとする私に、その誤りを知らせ、自分の姿に目を覚まさせて、今ある人生の事実に立たせようとするのが真宗の教えなのです。
四衢亮「観無量寿経の教え」より

参考資料C「通底する生命 信楽峻麿「浄土真宗の生命観と生命倫理」」
仏教における生命理解の特徴の二つ目は「生命通底」。 これは生命倫理より環境倫理の問題に関わるんですが、仏教では一切の生きとし生けるものに命が共存・共通してるというのです. 「首楞厳経」 という経典に
「十方の草木皆有情と称して人と異なることなし、 草木人となり人死して還りて十方の草樹となる」 「人、羊を食するをもって、羊、死して人となり人死して羊となる。是の如く乃至十生 (あらゆる動物)の類. 死々生々に互いに来りて相くらい、悪業ともに生じて未来際をきわむ」 とある.これをうけたと思われる親鸞の言葉、 「この如来微塵世界にみちみちてまします。 草木国土ことごとくみな成仏すととけり」
人間と他の動物は、共通の命の繋がりがあるんだという。
それがさらに膨らんで 草と木にも繋がっているんだという。 動物以外の草木に繋がると考える. ところが仏教が日本に来ますとね、 人間の命は親鸞が書いてるように, 草木国土、国土というのは土や石です 鉱物までが命をもってるんだと考え、それが人間の命と共通して、 石ころも終には仏になるんだと、こういう考え方が出てきますね. まあこれが日本仏教の独特の自然観との関わりです。

参考資料D,「高倉会館法話集歎異抄講話2」
  廣瀬杲
親鸞聖人の御一生というのは九十年の御苦労でございますが、 九十年の御苦労というのは、何か人に別れ、別れして、新しいところへ、新しいところへと旅をしていかれる。そういうことで申しますとそのような御一生をつらぬくものは、厳しさと淋しさとい ったものであったろうと、自分で勝手に思い続けておりました。やはり勝手にそのように考えております時には親鸞聖人のお書きものやお言葉も、そういうふうにしか響いてこないのです。と ころが一期一会と申しますか、 人と人との出会いに何ともいえぬ懐かしさを覚えるといった経験 をしますと、親鸞聖人の御一生は決して淋しさと厳しさだけではなくて、その奥に懐かしさがあ ったのではないだろうかと思えてまいりました。外面的に見ますならば親鸞聖人の御一生は淋しいものであったと思えそうですが、そうではなくて、人の懐かしさを確かめ確かめ、懐かしい人 から懐かしい人へと出会い続けていらっしゃった。それは人だけではなく、草にも木にも出会い 国土にも出会い、生きとし生けるもの、親鸞聖人の場合には普通には生命が感じられない無機物 といわれるものにまで、いのちを感じて生きていかれたのだと思います。
親鸞聖人のお言葉の中に、
「『草木国土ことごとくみな成仏す』と説けり」
とありますが、「説けり」という語は親鸞聖人以前の仏教の考え方の中に、草も木も国土もことごとく仏となるという教えを学んでおられたのでしょうが、 はじめてそのことがわかったということではないでしょうか。 それまでも説かれているということはよくわかっていたのでしょうが、本当に人の懐かしさ、生きとし生けるものの懐かしさ、 国土とおっしゃるように土も木も、 生命 がないと思われているものさえも、 深い生命のつながりを生きているのだという懐かしさでふれ ていった時に、仏法が、草も木も国土もみな仏となるのだと説いてくださった言葉の意味が自分 に納得がいったということが、「『草木国土ことごとくみな成仏す』と説けり」という言葉になっ たのだろうと思われます。
淋しい御一生ではなかったかと思って拝読していますと『教行信証』の言葉まで響きが違ってまいります。しかし懐かしい人との出会いの一生であり、生きとし生けるものすべてを懐かしみつつ、一生を生きていかれたのが親鸞聖人の御一生だと気づいてみますと、『教行信証』の一字 一字のお言葉が、みな懐かしいひびきを持って聞こえてくるのですね。それどころでなく身近に 『歎異抄』の第六条では普通私達が教団と申しております事柄が確かめられておりますが、いわゆる同朋とか同行という言葉も、決して理屈で何かを考えてでてきたのではない。「一切衆生悉有仏性」という言葉もございますし、身近なところでは曇鸞大師の、「四海の内、皆兄弟」とい う言葉もございます。 いろいろありますが、 そういうお言葉が先にあって、親鸞聖人に同朋という頷きが出てきたのだとは思えないのですね。そういうこともあったのではありましょうが、 具体的には、懐かしき人との出会い、懐かしき生命あるものとの出会い、生命なきものとの出会いの中で、 同朋という言葉がいきいきと、 なまの響きを持って、親鸞聖人のお口をついてでたので しょうし、親鸞聖人の頷きとしてそういう世界が開かれて来たのだろう。このようなことを思うのです。
そのようなことを思いますと、親鸞聖人の御一生というのは本当にどんな淋しさの中でもくじ けない、というよりも、群萠に生かされ、群萠を自分自身のいのちのうちに実感し、そして群萠 の一人として生きていくという、どこへ行っても一人ぼっちになることのない一生であった。こ のように領解をさせていただくことが出来るのではないかと思うのです。
先日、インド旅行から帰った知人が私の家に寄ってくれまして、夕方の六時頃から翌朝の五時 頃まで話し合ったのですが、インドの人達のものの考え方の底にあるものは、お釈迦さんの生きておられた時代とは社会状況もずいぶんと違うですが、その現代のインド人のいのちの底に は古代とかよい合うものがあるのではないかというお話を聞きながらいろいろと思いました。御 承知のようにインドでは非常に動物を大切にする。 牛や象やらまで道にうろうろしている。自動車がスピードをあげて走ってくるが、人間を見てもスピードをあまり落さない。ところが牛などが出て来ますと車を止めて、道を横切るのを待つそうです。 友人が、どうして人間の時にはスピードを落さなくて、動物の時には車を止めるのかと聞くと、人間は車をよける能力を持っているが、牛はその能力がない。 能力のないものに迷惑をかけるわけにいかないと言ったそうです。インドにはヒンズー教という宗教がありますが、ただその宗教の影響だけでそうなったわけではないと思いますね。どうしてそんなに動物、特に牛を大切にするのか聞きましたところ、牛は何もかも自分に与えてくれる。例えば乳を出してくれる。仕事の労働力にもなってくれる。自分の生命を与えてくれる。 糞は肥料や燃料にもなる。何一つとして牛は捨てることなく人間に与えてくれるというのですね。 だから牛に生命を与えられているようなものだ。だから、牛を大切にするのだ。それでは牛の肉 も食べたらどうか、というと、それはお返ししなくてはならないものだといったそうです。自分のために牛は一生を全部与えてくれたのであるから、与えてくれた牛が生命を失って、寿命が尽きて死んでいく時には、与えてくれた世界の方へ、牛の生命全部をお返ししなくてはならない。 その話を聞きました時に、インドの人の心の中にあるものは、とても何々教の影響だというだ けではないものを感ずるのです。 かつて、 徳川五代将軍綱吉が犬を極端に可愛がったというような、自分勝手な考えで動物を大事にするのでもなく、 あるいは動物を可愛がる運動の精神とも少 し違うようです。 あの愛護運動の中には人間中心の考え方があるようですね。むしろ我が身を与えてくれたという生命あるものに、本当にお礼をいいながら生きていかなくてはならないような自分を生きている。 こんなことをつくづくと思ったのです。


参考資料E「だまされることに疲れてしまった私たち」金井隆久
「ヴィールス拡大阻止のため◯◯をお願いします。」
と誰かが言ったとき(殊に権力を持つものが言ったとき)、それは事実上の命令だ。言われた側の人は、背いた場合に受ける罰を恐れて防御行動にはしるだろう。
ところで、右の命令文は、「感染拡大は悪いこと」という、ひとつの思想を根拠としている。ひいては「死は悪いことで、生は善いこと」と、ものごとを一つの基準で、二元的に価値づけして分け、その片方に愛着して、片方を排斥する価値観を、当然のように、前提としている。
言い換えると、その思想だけを肯定し、他の思想を信条として生きている人びとを否定していることになる。否定された人は、肯えない考え方を押し付けられて、人格を蹂躙される屈辱を味あわされることだろう。
ところが世の中には、生と死は、善でも悪でもない。それは人間が恣意的に付着させた善悪の価値観を超越した「事実」なのだ。死ぬことは悪いことでなく、もちろん善いことでもなく、善悪を超えた事実なのだ、と信じて生きている人びとが、少なからずいるのである。
人は、清潔と濁悪とがあると執着して、このふたつにこだわる。しかし、ものごとはもともと清潔も濁悪もなく、どちらも人が心のはからいの上に作ったフィクションに過ぎない。人は善と悪とを、もともとまるっきり別のものに思い、善悪にこだわる。大皿も大地も大洋も、もともと善でも悪でもないのに、私たち人間は、そこに白黒とは正邪とかいろんな区分けを設定して争う。それがすなわち煩悩で、人間としての根本の無知で、そこから身を煩わし心を悩ますあらゆることが発生してしまう。
そこで、単なる善も単なる悪もこの世界には無く、善悪はもともと別でなく、人がこしらえた虚構なのだと知ることによって、悩み苦しみを脱して生こうとする人びとが、この地球上に実在します。
「新型ヴィールス拡大阻止のため◯◯をお願いします。」
との無神経で強要は、それらの人びとの思想信条の自由と、宗教信仰の自由とを、傲慢に踏みにじっているのである。明らかな憲法違反なのに、誰もそれを自覚しない。指摘する人は、もっといない。
「だまされることに疲れてしまった私たち」金井隆久(ネクストパブリッシング、2022)より





参考資料F「叛逆」アントニオ・ネグリ / マイケル・ハート
 セキュリティに縛りつけられた者は、処罰と外的脅威の組み合わせを恐れながら生きている。支配権力とその警察に対するおそれはひとつの要因ではあるが、より重要かつ効果的なのは、危険な他者や未知の脅威に対する恐れ、つまり一般化された社会的恐怖である。(中略)セキュリティ体制のなかで、収監されていない者の覚える恐怖は、空虚なシニフィアンであり、そこではあらゆる種類の恐ろしい幻覚や妄想が出現しうる。(中略)亡霊のように出現した恐れが、社会全体に取り憑くことによって、あらゆるたぐいの不正が是認されるようになっているのだ。
「叛逆」アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート 水嶋一憲・清水知子翻訳 NHK出版 二〇一三年 四九ページより引用

ヴィールスは単独で生殖する能力がなく他の生物の細胞内に入り、そこの遺伝子をヴィールスの遺伝子に改変し、被進入細胞にヴィールスの子孫を作らせます。ゆえにウイルスが他の生物の生殖細胞に入ってその遺伝子情報を書き換えた場合、ごくまれに、ウイルスの遺伝子を受けた被進入生物がヴィールスの遺伝情報を保持したまま子孫をつくることがありえます。上に引用したいくつかの論文は、サルの仲間の哺乳動物の生殖細胞にヴィールスの遺伝子が入り、それが胎盤を作るための重要な遺伝子となった。元からあった遠い哺乳類先祖から受けつできた胎盤を作る遺伝子が、ヴィールス由来の遺伝子に置き換わったのではないか、と主張しているのです。

20世紀から今日まである特定の人間の集団を劣等島人種」とみなし、「民族浄化」するという蛮行が繰り返されました。ナチスはユダヤ人やスラブ民族を劣等人種と、自分たちドイツ人を「高貴なアーリア人種」を高慢し、「劣等人種」への嫌悪と憎悪感情を煽りに煽り、「劣等にして不潔」と決めつけた人びとを殺しつくそうとしました。同時代に、その相手のソ連や英国米国等はドイツ人すべてをファシストと蔑み、殺せ殺せやっつけろと連呼しました。その戦争の終了後はたちまちに英国米国等がソ連を「アカ」と憎悪して、人間の感情を持たない戦争マシーンであるかのように、ソビエト地域の人たちの人としての存在価値を全否定しました。同様にソ連は英米等を「穢らわしい資本主義の悪魔」視して自国民の心に、資本主義諸国の脅威の宣伝努めました。20世紀終盤のアフリカ・ルワンダでは外見も文化もあまり変わらないツチの人々とフツの人々とが、互いに相手を恐怖しあい、憎悪の連鎖の炎を燃え上がらせ、とうとう百万人の支社を出す殺し合いをしました。アメリカ軍のベトナム戦争イラク戦争等もこれらと同じ構図でした。
2020年代もそっくり同じ構図のプロパガンダキャンペーンが行われています。特定の微生物を名指しして、それを人類大量虐殺を企て攻撃する得体のしれない悪魔のように、人々洗脳させ、みんなから理性を奪い、「敵」を嫌悪せよ憎悪せよ、他人を信ずるな猜疑せよと煽り、この煽動にのらない人たちをほとんど非国民呼ばわりし世の中から排除しています。そして「敵」を倒す目的のためなら何でも許されると人々に暗黙のメッセージを発しています。経済活動を停止させて、大量の失業者と自殺者を発生させても構わない(仕方がない)、憲法の規定を無視し自由を奪っても構わない(人権を制限されても文句を言うな、自由を喪失したとかガタガタうるさいこと言うな)、そうして「敵」を殺しし尽くすためなら、強力な化学兵器をを散布して微生物界の環境を破滅的に破壊しても構わない。健康のためなら死んでもいい。何よりも大切な生命を護るためなら他人を(精神的に)殺しても善い。このように世界中の政府とメディアが怒号しています。テレビを見ない人間である私の眼にはそれらがぜんぶアドルフ・ヒトラーに見えて仕方がないのです。スターリンに見えて仕方ないのです。ジョージ・W・ブッシュに見えて、安倍晋三に見えて仕方ないのです。これら、異論を封ずる巨大なパワーの声は、その論理的基礎を、人間と他の生物はっすっかり別の存在だとづる二元的思考があります。ところが、現代生物学では、ヴィールスが遺伝子の運び屋であることが常識化されていて、それを利用した癌の遺伝子治療(細胞自殺遺伝子をヴィールスに運ばせ癌細胞に感染させる。他の生物の細胞に入ってその遺伝子を書き換えるヴィールスの性質を利用する治療法)が行われますし、右に引用した論文に明かされているように、私たち人間の遺伝子の何パーセントかはヴィールス由来で、ほぼ同じ遺伝子を今同じ地球に生きるヴィールスたちと共有している。ヴィールスは人間のご先祖であり、兄弟なのです。
私が云いたいことは、人とヴィールスの命の価値は等しいということです。殺してはならぬ、殺させてはならぬということ。そのことに気づけばそこにはとっても安穏でひろやかなお世界が展かて楽に生きられるのに、生きもの同士が憎みあって貴重な人生を空しく過ごすなんてもったいないということなのです。人は人を猜疑することで健康になることはない。他人を他の生命を慈しむこと、ひとを愛することこそが人を健康にするということなのです。
I like - Comment - Share - 21/08/2023 19:12 - Public
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